(2020年2月27日)
始まってすぐに、「この演目をうまく表現する言葉を自分は持たない」と感じさせられた。
まず何より、舞台装置が秀逸だ。
京都の中京区の静かな路地。
門をくぐり、料亭のような長い石段の庭を歩くと、白い土壁の蔵がひっそりと佇んでいる。
靴を脱いで、蔵の中に入り、座布団に座る。
そこは蔵を改造した舞台で、畳10条程の広さの中、観客はたったの8人のみ。
舞台と観客席の境もないのだ。
中の空気はひんやりとしていて、ぽっかりと静けさの中に放り込まれたよう。
扉が閉まると、文字通り静寂と暗闇に包まれた。
こんなに暗いところに身を置くのはいつ以来だろうか。
「みし、みし」
静寂をやぶる、木の軋むような音が、開演の合図だった。
徐々に暗い灯りが射し始め、階段に異形の舞踏家が現れた。
全身を駆使して、何かを表現していく舞踏家。
その動きは、悲しくもあり、痛々しくもあり、楽しげでもあり、ときに荒々しくもある。
彼女は、老婆のようにも、少女のようにも、はたまた鬼のようにも見える。
一つの印象を与えては、それを裏切るように全く違う顔をみせ続ける。
そして、ときおり観客の顔を覗き込むように順番に見つめる。
その表情は、おどけているようでも、何かを訴えているようにも、ただ無垢に笑っているようにも見える。
瞳は妖しい光を放ち、見つめられると心の底を見透かされているようだった。
今起きていること、演出の意味などを必死に考えてみるが、そのどれも合っていないような気がする。
だけど、目の前で彼女は全身全霊で何かを必死に表現している。
必死に訴えている。
蔵の中に、様々な感情が渦巻いている。
そして、「この演目をうまく表現する言葉を自分は持たない」と感じた。
2階から生の三味線の音が響き渡る。
とても綺麗な音色だ。
考えるのをやめて見ると、彼女の動きはとても美しい。
彼女の身体もとても美しい。
自分を常に高め続け、表現者であり続けた者の身体だ。
その美しさを絶妙な演出が、さらに際立たせる。
赤い光を帯びた般若のような後ろ姿の凛々しさ。薄暗い床にへたりこむ振り乱れた悲しみ。
白く浮かび上がる肢体のなまめかしさ。腹の底まで響くような三味線の調べ。
言葉にできない、感情を揺さぶれれるような、強烈な「何か」。
生命の誕生とそのかろやかな息吹から始まり、雄々しい命の躍動と生の喜び、老いと悲しみ、そして死。
最後には死後の世界と新たな命の誕生までを垣間見た。
けれど、きっと見る人の数だけ、そこには物語が現れるのだろう。
舞踏は、まるで鏡のように見る人の心が投影されるのだろう。
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公演の後、蔵の中でディレクターと舞踏家の方と話をすることができた。
この距離の近さが、魅力だ。
話をお伺いすると、
一人一人を見ているのは、一緒に船に乗って旅路にでるようなイメージで考えていた、舞台は一緒につくっていくもの、一緒に感情を分かち合って、希望を持ってもらうように最後は明るい締めくくりにしたなどなど。
紡ぎ出される言葉とその真摯な姿勢は、良く生きることを模索する哲学者のようだった。
折しも、コロナウィルス問題で世の中が大変な状況で、その日はちょうど学校の臨時休校が発表された日だった。
そんな中、普段から行なっている自身にできることを、高次元で真摯に続ける優れた表現者がここにいる。
今回の公演で、受けた印象は強烈で、帰路は自然と自分の仕事のあり方を振り返らされた。
自分は何者で、自分の仕事は何で、自分はどう社会に貢献できるのか。
実は、自分のオフィスは公演会場から歩いてわずか2分の距離。
普段通っている日常の中に、このような革新的な試みが繰り広げられる異質の空間があったとは。
聞くのと、実際に演目を見て体感するのとでは大違いである。
この場所を知ることで、不思議と日々の暮らしまでが豊かになった気がした。
そんな京都の夜だった。